我々は「奴隷的」ではないだろうか?そこかしこにある黄金の鳥籠ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察③

印象的なのはタイトルにある「黄金の鳥籠」。

物語序盤ヒュッレムがスルタンのハレムに入る際、主イブラヒムから扉のついていない金の鳥籠が贈られる。

鳥のような自由を望むヒュッレムに対し、イブラヒムは「どこにいようと自由とは心のありようだ」と告げる。

ヒュッレムのような奴隷が自由を望むのは当たり前のように思うけど、現代の我々だって自由は至上のもので自由を夢見羨んで生きている。
どうして自由な立場にあるはずの我々は奴隷と同じ夢を見るのか?

我々は一体なにから自由になるのか

私たちが究極的に求めている変化、憧れている自由というのは、「私」や「私たち」といった認証の中に固定された、精神を解放すること。
自我を主張して、「私」がいかに善良で、魅力的な人物なのかを承認してもらうために生きる価値観から、自由になることです。

自分に値札をつけて、高く買い取ってもらうことを競い合う、「奴隷思考」から解放されることです。

岡崎直子公式メルマガより

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ハレムはスルタンに認めてもらえるかが全ての鳥籠。
今我々がやっているのも同じこと。
素晴らしい存在であると認められ、他の者より優れていると評価されることが価値。

誰かの作ったシステム(鳥籠)の中で承認されようともがいている。

鳥籠の存在に気づくこと

現代においても、鳥籠はそこかしこに存在している。
どれほどまばゆく輝いていても、他者の思惑のもとに作られているのならそれは黄金の鳥籠だ。

私自身であることより、誰かの作った枠組みに、誰かの意向に沿うように生きる場所。

その鳥籠の存在に気づいたら。

自由になるとは、どんな価値観から自由になるか自分で決めるということなのかも知れない。

夢の雫、黄金の鳥籠 (3) (フラワーコミックスアルファ)

(続く)