囀る鳥は羽ばたかない 7巻考察②「矢代の現在地ー白日、闇の別境」
続いて矢代の現在地について考察です。
親殺しの代価
平田に殴られ右目の視力を失った矢代。
親殺しの代価は体の一部を持って行かれることでした。
(三角さんの時を思うと今からキツい。。何を支払うことになるのだろう。)
「なんなら両方持ってたって良かった」
それが自分の人生から百目鬼を切って、元いた道に戻るってことなんでしょうけれど。
諦めたはずのものはまだ、矢代の中に残っている。
すでに変わっている矢代
7巻で印象的なのは矢代の見た夢です。
6巻までは雨の中取り残されるのが自分だと受け入れていた矢代。
今は追われたら逃げるくせに、百目鬼が追いかけてきてくれないと取り残された孤独を感じる。
頭打って百目鬼を覚えていないと下手な嘘をついたり、百目鬼の夢を見て海で黄昏たり、綱川組長に5割くらい本心を語ったり、「矢代らしくない」と言われる行動にはすべて百目鬼が関わっています。
「人は変わるのか」という問いには「すでに変わっている」という回答もできる。
矢代の肩の銃創と、百目鬼の頰の傷と左手小指。
再会後、お互いが出会って変わった証を確かめる描写はさすがヨネダ氏でした。
自分自身はだれのものなか
自己犠牲的な傾向というか、大切な人のため自分を省みない点はふたりとも似てるんですよね。
二人の違いは何かを考えてみると、「俺のモンだろ」と三角さんに言われて答えられない矢代と、「俺がどう生きようと何になろうと 俺のものです俺の時間もこの体も」と言ってはばからない百目鬼。
自分自身は誰のものなのか、というところですね。
自身の所有権が明確に自分にあるかどうかが二人の違い。
望みを決して諦めない百目鬼と、身を切ってでも諦めようとする矢代。
矢代の自分自身がどこか「自分ものではない」状態は過去の出来事が起因していることを考えると、百目鬼と本当の意味で共に歩いていくためにはあの過去と向き合うしかない。
しかしそれを矢代に求められるのか、と言うと「俺は俺という人間を手放さなきゃならない」の言葉の示す通り、それはこれまで作り上げてきた矢代の崩壊を意味します。
自分が自分のものじゃないと、人を愛することはできない。
分かってはいても。本当の望みがそこにあっても。
簡単ではないよなと思います。
囀る鳥は羽ばたかない 7巻考察①「百目鬼、恋する兵士と追われる立場」
思った以上に新章突入感ある第7巻の考察です。
五代目桜一家登場
6巻で少し出ていた組長綱川率いる桜一家が登場。
娘の仁姫ちゃんの誘拐、家督のゴタゴタなど家族の業はありつつも、独特の明るさを持った組です。
道心会系の面々とは異なり、愛すること愛されることをあんまりこじらせない感じ。
生まれ変わった恋する兵士
綱川組長「お前色男だろ」若頭連「肝の据わった冷静な男ですよ」クラブの女の子「いいひとじゃんかっこいいし」
桜一家に入って4年、真誠会時代を知る面々&読者からすると「誰???」と思うほど変貌を遂げた百目鬼。
6巻「飛ぶ鳥は言葉を持たない」で百目鬼の思春期が終わるんだな〜とは思いましたが、急に大人の階段登りすぎじゃない??な百目鬼の姿。
nwhite.hatenablog.com
なぜ百目鬼はそれほど自分を変えたのか、その理由は矢代しかありません。
人は変わるのか、変わらないのか
第42話で「人は変わるのか」が新章のテーマであると提示されました。
”人は変わるもの” by 矢代、”人はどうせ変わらない” by 綱川。
おそらく”人は変われるもの”の立場なのが百目鬼なんだと思います。
すっかり変わったように見える百目鬼ですが、出会った時から仁姫ちゃんに気に入られており、妹の葵ちゃんに続いて年下の女の子キラーぶりを発揮。
未だに井波と矢代が連絡を取っていると知り、そんな矢代に傷つくところも相変わらずです。(個人的には矢代が昔のように誰とでもやってるかはちょっと分からんなと思って見ています。)
求められる立場へ
恋する兵士百目鬼は恋をされる立場の自分に100%興味なし。
ですが綱川組長は「あいつが欲しくなった」と望み、神谷をお目付役に付けるほどの執心ぶり。
ただ矢代を求めていた立場から、矢代と同じく求められる立場へ。
それは知られたくない腹を探られることであり、ただ求めるだけでは矢代を得られなかった理由を理解する一助になるんじゃないかと思います。
「俺に出世は期待しない方がいい」と神谷に言っていた通り、百目鬼は上になるために桜一家にいるわけではないようです。
捨てられた腹いせをするのかと甘栗に聞かれ「ーああそのつもりだ だが今はまだしない」と答えたり、城戸の件で矢代と鉢合わないよう急いだりしているところを見ると、百目鬼的にタイミングは今じゃないけど何かの準備はしている様子。
矢代を思い続けていることと、手酷く捨てられたのを根に持ってるのは百目鬼の中で両立しているんでしょうね笑
百目鬼は桜一家で何をしようとしていたのか、次巻以降のお楽しみです。(たぶん神谷くんが暴いてくれる。)
次回、矢代の現在地について考察予定。
ゴールデンカムイ 網走潜入編後、面白さが減ったと感じる理由について考察「必要な成長痛」
今回はゴールデンカムイについて、物語前半のクライマックスだった網走潜入編以降「面白さが減った」と感じる理由を考察します。
樺太編から回想が多数挿入されテンポが落ちたことは理由の一つとしてあるでしょうが、樺太編以降アシリパの信じる人間の幅が広がらなかった(むしろ狭くなった)ことが一番の原因ではないかと考えています。
人を信じるということ
樺太編以降アシリパが信頼する人間といえば、杉元杉元アチャときどき白石、といった具合で新たな仲間や相棒には出会いませんでした。
網走潜入では色々な裏切りが渦巻きましたが、裏切り自体ははよくある話。
信じることを選んだのは自分である以上、裏切りにあった後、自分でどう始末をつけるのかが成長するうえで重要になります。
成長の描き方:ドラマ「武則天」の場合
中国ドラマ「武則天」では、一介の後宮の宮女がどのように中華史上唯一の女帝に成り上がっていったかが描かれます。
・後宮で貴妃達の権謀術数に心優しい親友と立ち向かう
・度重なる謀殺の危機と、才覚あふれる臣下達との丁々発止
・皇位を巡る親子、兄弟感での命のやり取りを止めようと試みる
・気弱な皇太子に帝王学を授ける
・皇帝の寵愛を受けるも皇帝は国が一番大事、宿した子は殺すように遺言を残される
・嫉妬した親友に裏切られ皇宮追放
・皇女に利用され、子二人を殺される
・義理の息子の謀反、実子達の殺し合い
・姪が夫を誘惑し、自分を毒殺しようとする
物語を通じ武則天は山のような困難と裏切りに直面し、多くの失敗をします。
武則天が凄かったのは、裏切り者に対する落し前のつけ方。
強大な敵と愛した者達の裏切りが武則天を強くしていったと言えます。
「私が憎いんでしょう!?殺せば!?」と叫ぶ皇女に笑いながら「では望みどおりに」と死を賜ったり、姪に飲ませる毒茶を優しく冷ましてあげる姿は皇帝の貫禄そのもの。
永きにわたり敵対関係にあった臣下(長孫無忌)と、お互いが国を支え続けて来たことに対する敬意を表しあったシーンは物語のハイライトでした(第76話「敵が知己に」)。
多くの人との関わり、理想に燃えたのちの幻滅、己の未熟さと失敗、愛すれども届かぬ想い、繰り返される惨劇…。
武則天の成長・変化が説得力を持つのは、経験から学び理不尽に屈さず裏切られるたびに己を強くしていったところ、そして敵の力量をも認める度量にあります。
希薄な人間関係
アシリパの樺太の旅をざっと振り返ると
・杉元死んだと聞かされる
・樺太アイヌの村でスチェンカ&バーニャ
・国境警備隊に狙撃され、キロランケ&アチャが皇帝殺しと知る
・ウイルタの家で尾形の手当てをするも、意味不明な逆恨みをされる
・白石を信じるようになる
・ニウブと漁をする
・亞港監獄爆破、ソフィアと会い少し話す
・尾形のアレ
・暗号を解く鍵を思い出し、キロランケに少数民族の未来を託される
・猟でクズリを捕り、シネマトグラフ撮影&上映
と色々あった一方、旅は他民族の文化を知ることが大半で、どちらかと言うと人として成長した感があるのは白石の方では…?と言える内容。
アシリパを庇護する人がアチャから杉元に変わっただけ…という感もあり、十代前半の子供が大人の庇護を受けるのは当然なんですが、ウイルタやニウブの人達、年の近い樺太アイヌのエノノカさえ「異なる文化」の一部としてとらえ、一人の人格として向き合う描写がなかった。
一緒に旅をした鯉登少尉や月島軍曹にもアシリパは興味がなさそうで、むしろインカラマッの方が少尉と軍曹を理解しているのでは?と思うほど、他者に対する洞察が薄い。
屈斜路湖でトニに「これではいつまでたってもお前の人生は 闇から抜け出せない」と語っていた頃は、もっと人を見ていたと思います。
網走潜入前それぞれ思惑があるのは分かりつつも、区別することなく皆に馳走を振る舞ったのはアシリパ特有のいい所だと思うんですよね。(アイヌの未来のため他民族との共生を目指すなら、ひとつの理想形。)
今は目的のため、関わる人と関わらない人を分けてしまっている。
裏切りに対応できる自分に成長するより、安易に人を信じない、より警戒するといった方向に進んだように見え「彼女はいろんなものをこの島で学んで成長したんだ」(第211話)、「ちょっと見ない間に少し変わったようだな 猛者ども相手に渡り合ってる」(第246話)と周囲に語らせても説得力に欠けてしまいます。
成長のプロセス
樺太での経験からアイヌの未来を守ること決意した、そこまではOKなのですが、決意する→行動が変わる→自分のしたことの結果を引き受ける、が成長の道筋であり、決意と成長は直結するものではありません。
コミックス収録の際、鶴見中尉からの逃亡劇に大幅な加筆修正がされました(第211話)。
鶴見中尉の異常性を増しアシリパの選択に正当性を持たせようとしたように見えますが、あの逃亡劇が不評だったのは、アシリパが自分のしたことの責任を杉元に負わせているからだと思います。
鶴見中尉がどんな男か自分で見て確かめたい→会えば逃走時のリスクが高まる
分かりきった逃亡のリスクは杉元が重症を負うという結果で払った。
選択には責任があります。
逃亡後「私は杉元佐一と一緒に地獄に落ちる覚悟だ」とまたアシリパは決意をしてるんですが、一緒に地獄へ行くことが責任の取り方になるのでしょうか…?(必要なのはたぶん決意じゃない。)
必要な成長痛の不在。
網走後、大切な「裏切りに気づかなかった自分」への向き合い方が不十分だった(自分に対し落し前をつけずに来てしまった)のが響いてしまったなと思います。
「あなたは罪を治めることもできる」ゴールデンカムイ 偶像について考察②
続いて、罪を犯す人間は”その罪をどう扱えばよいのか”についての話。
「今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません」(創世記第4章)
父花沢中将から「呪われろ」の言葉を受けた尾形は、父なる神の地(第七師団)から離れ地上の放浪者となりました。
弟を殺した兄カインが向かうのは「エデンの東」。
あの有名な映画「エデンの東」は創世記第4章の寓話がモチーフとなっています。
子どもにとって最大の恐怖は、愛されないことでしょう。
拒絶されることこそ、子どもの恐れる地獄です。
しかし、拒絶は世界中の誰もが多かれ少なかれ経験することでもあります。
拒絶は怒りをよび、怒りは拒絶への報復としての犯罪をよび、犯罪は罪悪感を生じさせます。ジョン・スタインベック 小説「エデンの東」
そのまんま尾形な感ある「エデンの東」。
拒絶への報復としての犯罪、そしてそれによって生じる罪悪感。
ここでまさかのティムシェル
「エデンの東」でキーとなるのはヘブライ語のティムシェル(timshel)。
フィギアスケーター町田樹さんがショートプログラムで『エデンの東』を演じ、一躍有名になった言葉です。
「小説の隠れたテーマである“ティムシェル”を体現するつもりで演じています。
ティムシェル。日本語だと『汝、治むることを能う(あたう)』という難しい言葉になっているんですが、“自分の運命は自分で切り開く”という意味だと解釈しました。」(町田樹さん談)
調べてみてティムシェルは「汝、意思あらば、可能ならん」と訳するのが一番汎用性が高いのかなと感じています。
あなたを慕い求める罪を
たとえば口語訳旧約聖書(1955年版)において該当箇所は以下のように訳されています。
「もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」
ジョン・スタインベックの小説「エデンの東」では、中国系移民の料理人リーがティムシェルの翻訳を試みる。
彼は以前から聖書に精通し、創世記4章7節に使われている ヘブライ語 "timshel(ティムシェル )" に注目していた。
この単語は、欽定訳聖書(KJV) において「あなたは罪を治めるだろう」の「...だろう」( 予定 )、アメリカ標準訳聖書 (ASV) において「あなたは罪を治めなければならない」の「...ならない」( 命令 ) と訳されている。翻訳があまりに異なることに興味を抱いた彼は、ヘブライ語としての本来の意味を探求し遂に「あなたは罪を治めることもできる」の「...もできる」と訳せることを突き止めたのである。
つまりティムシェルとは、人間の自由意志とその意志通りに実行する力とを併せ持つ言葉なのである。
参照:http://www.keisenjyuku.com/cms/wp-content/uploads/2018/05/763f43968f2ed67eefddbd577a1404e5.pdf
「偶像崇拝の禁止と尾形」ゴールデンカムイ 偶像について考察①
今回はその目的や意図がイマイチ不明な尾形について考察。
【天から役目なしに降ろされた物はひとつもない】
作品の根幹を為すアイヌの教え。
尾形に与えられた役目は何なのか考えてみると、勇作さん・アシリパ・そして鯉登少尉にとっての鶴見中尉と、作中で尾形は”偶像を破壊する役回り”を担っています。
唐突なマタイ
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
(マタイによる福音書 第7章)
71話の扉絵で唐突にマタイが引用されます。
父花沢中将との会話で尾形は「愛」「神」「祝福」といった言葉を発し(103話)、鶴見中尉の回想では聖母子像が描かれているように(177-178話)、尾形や鶴見中尉にはキリスト教的世界観が模されています。
ちなみにマタイ第7章はこう続く。
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。
茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
真実ではなく甘い嘘を語るのはにせ預言者。
このままいくと鶴見中尉は火の中に投げ込まれてしまいそう。
囀る鳥は羽ばたかない 6巻考察③「矢代に訪れた救いー目の前のありふれた光」
さてさて6巻で大きな転機を迎えた矢代について考察です。
「あいつ末期ガンの終末医療とかやってんのな」
不吉な表現にヒヤッとしましたが、これは”これまでの矢代”に終末が近づいているという描写だったようです。
終わらせたかった理由
「死にたいわけないじゃないですか 特に生きたいとも思ってませんけど」
「綺麗なものは汚したい 大事なものは傷つけたい 幸せなものは壊したい」
矢代の抱えている矛盾について、七原の口から「やめたくてもやめらんねぇ」「そうじゃねえもんもねじ曲げられてそうなるかもしんねえよな」と語られました。
セックスも痛みも、好きじゃないのに「好き」にしなければ生きられなかった。
本当は「そうじゃない」のに「ねじ曲げ」なければ成り立たない自分を成立させることに矢代は疲れていた。
救いとは何か
「頭もあいつに惚れてたら?」
「まっ…さかあ!だったらなんで覚えてない振りすんだよ」
「ですよねー」
病院で会話する七原と杉本に、影山のような「鈍さ」が強調して描写されているのは、「身内」の表現と考えられます。
義理の父親の強姦にはじまり実の母親のネグレクト、初めて好きになった影山を守るため極道に入ったのに当人全然気づいてなくて20年絶賛片思いの挙句恋のアシストまでするという、報われなさにも程があるだろなこれまでの矢代の人生。
でも曲がりなりにも生きてきたその人生の中で、矢代は影山、七原、杉本という身内を得て、百目鬼と出会えた。
救いとは具体的にもたらされる何かではなくて、曲がりなりにも生きてきた自分の人生を否定しなくていいこと。
家族に恵まれなかった矢代が、病院で七原たちのにぎやかで鬱陶しくもあり、当たり前のようにある身内の愛の中にいる姿は感無量でした。
おめでとう矢代。祝福とは、目の前のありふれた光。
親離れ子離れ
「囀る鳥は羽ばたかない」では主に親と子の概念や関係性に囚われて、さえずれども羽ばたかない鳥たちが描かれています。
6巻で「ないない組長とかメンドクセーし」と矢代は親の立場になる気はないことを明言。
一方「別のところで暫くなんかしてろって」と三角さんの子になりきるかどうかの判断は引き続き保留の立場を手にした。
「俺を切っちゃってくださいよ 平田みたいに」
三角さんに子離れを促すようなセリフを吐いた矢代ですが、本当に親離れをする決意があるのか。
親にとって「良い子」であるのが矢代の人生だったから。
このあたりが矢代の残り半分の仮面に関わってくるのかなと思います。
(囀る鳥は羽ばたかない 6巻考察 終)
囀る鳥は羽ばたかない 6巻考察②「親とは何かー失いながら生きる者」
続いて作中唯一、魅力的な親として描かれている三角さんについて。
親殺し子殺し
ヨネダ氏の作品で印象的なのは2008年発刊の「どうしても触れたくない」。
外川の母親がノイローゼから家に火をつけ弟が死んだ話。
ボーイズラブのエピソードとしてはやや唐突だなと思った記憶。
一般誌作品Opでは親殺しの少年クロと子を失った夜明を描き、そして本作囀る鳥は羽ばたかない。
親殺し子殺しはヨネダコウ氏の作家としてのテーマと言える。
親殺しは巣立ちのための通過儀礼として有名ですが、じゃあ子殺しはなんなのか。
子殺し、それは親の都合で子の生命や人生を左右すること。
矢代の母親は男を繋ぎ止めるために矢代を見殺しにし、平田は自分の立場のために矢代の命を狙い、三角さんは自分に恥をかかせた平田を始末した。
親の立場
親(三角さん)の愛を求めていた竜崎も平田も、一方で組長という親の立場にあった。
組員(子)を大切にしていた竜崎の松原組は解散、平田は一緒にいた手下を豪多組の残党に殺され…と彼等はあまり良い親ではいられなかった。
親は愛を求められる立場であり、愛を与えようとする立場でもある。
それは想いとは裏腹に、往々にしてままならないもの。
親は子を選べるのか
子は親を選べない、というのはよく言われることですが、では親は子を選べるのか。
そもそも三角さんが矢代を自分の子として選ぼうとしたことが一連の物語の発端になっています。
「親バカ」として矢代を溺愛しているように見える三角さんですが、黒羽根の一件について「そんなもん求めてない 誰も代わりにならねえ」と回想している通り、一番愛した男も女ももうこの世にはおらず、誰も変わりにならないと分かっている。
奥さん、黒羽根、竜崎、平田、立木会長と人生で得てきた大半のものを失ってきた三角さん。
次は矢代と天羽さんかと考えてしまう。
失いながら生きること
子の苦悩。それは親の愛を求めようとする苦しみ。
得ようとすることが子なら、失う我が身を受け入れて生きるのが親。
失うことを受け入れて生きる。
それが子と親の違いなのかなと。
さあ矢代を失うことを、三角さんは受け入れるだろうか。
次は矢代に訪れた救いについて考察予定。(続く)
囀る鳥は羽ばたかない 6巻考察①「百目鬼、イノセンスとの別れ」
コミックスは大人しく電子版を待っていました。
といわけで囀る鳥は羽ばたかない6巻考察に入ります。長くなりそうです!
百目鬼、 思春期の終わり
4巻で百目鬼が矢代の部屋から盗んだ影山のコンタクトケース。
あれどうなるんだろうと思ってたら「人を好きになる痛み」の追体験でした。
「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」でアパートで一人、コンタクトケースを握りしめて泣いていた高校生の矢代。
アパートに取り残された大人の百目鬼もひとり、矢代に捨てられた痛みを握りしめる。
人を好きになる痛みを知らなかった百目鬼。
5巻で百目鬼が置いて行かれた要因のひとつと思います。
どうして 分からないんだろう
こんなに綺麗で こんなに一途な人が傍にいるのに
どうして気付かないんだろうどうして俺は
こんなに腹が立って 少し苦しいんだろう
それが恋じゃなかったらなんなんだよ百目鬼ィィーーーーーー!!!!!
と叫びたいほど作中屈指の好きなシーンですが、初めて人を好きになったあの頃の百目鬼はまだ夢の中にいた。
一方矢代の「好き」は歪んでいて、拷問みたいで、どうしようもない。
どれだけ百目鬼を好きでも、人を好きになる痛みも知らないような子供を矢代が恋愛の対象にすることはない。
自分のすべてを賭けようとしても、どうしようもできなかった現実。
この痛みの追体験を経て、百目鬼は精神的に矢代に追いついた(なので物理的にも追いつけた)。
百目鬼の思春期が、終わりを迎えた。
大切な「痛み」
3巻では「ぜーんぜん平気」「痛くありません」と互いに痛みを認めなかった二人。
倉庫で「まあ痛えんだけどなあっちもこっちも」と素直に言う矢代と、「痛いんだな」と聞かれて否定しない百目鬼。
痛みを否定しなくなったふたり、という関係性の変化の描写がヨネダ氏は本当に秀逸だなーと感じます。
いいとか悪いとかじゃなく、痛みは矢代の人生において重要なものだった。
「違うなら聞かないで欲しい…っ」
百目鬼の自分を想う痛みに、救われているような、癒されているような表情を見せる矢代。
「俺にとってはこんな感じだ」
痛みを求めていたはずなのに、人を好きになることを避けてきた矢代。
間違っている、矛盾している。
それでも生きてきた矢代の人生だった。
「飛ぶ鳥は言葉を持たない」ーイノセンスとの決別
そして書き下ろしの「飛ぶ鳥は言葉を持たない」。
「囀る鳥は羽ばたかない」の見事な対義語で震えました。
光の中に踏み出した矢代に対し、暗闇の中に踏み出した百目鬼。
ついに羽ばたいたと思ったら、そっちに行くのか百目鬼!!ってのが6巻で一番衝撃でした。
5巻ラストで矢代に雛鳥と言われていた百目鬼。
「この世界にいなければ 頭との関わりがなくなってしまいます」
矢代のそばにいたいからヤクザをやるっていう百目鬼の雛鳥精神。
羽ばたくことはもとより親の後を付いて回ることしか知らない無垢で、無知で、他の世界を知ろうともしない在り方。
大人になってもいつまでも無垢で無知なイノセンスでありたいというのは一種のグロテスク。
「お前は綺麗だからインポになったんだ」
綺麗と矢代に思われることに自分の価値を見出していた百目鬼。
綺麗ではない自分を生きる決意。百目鬼の大人への旅立ち。
次回、三角さんという親について考察予定。(続く)
囀る鳥は羽ばたかない 35話考察②「傍観者から当事者へ。羽ばたいた鳥は幸せになれるのか?」
次はひかりの中に踏み出した矢代について。
二十年越しの答え
病院に見舞いに来た影山に矢代は問いかける。
「お前はなんで俺じゃなくて久我だったんだ?」
矢代「ヤリてえなとかは?」
影山「あるわけねえだろ」「身内のAV見せられるなんて苦痛でしかねえ」
「なぜ俺じゃなかったのか」「なぜ俺じゃだめだったのか」
高校生の頃からそう想い続けてきた矢代は、影山本人から「身内だから」という回答を得ました。
そう、家族とはセックスをしないのだ。
ついに矢代もここまできた。
傍観者から当事者へ
このシーンは1話で事務所に影山がやってきた場面との対比になります。
「俺は、俺自身も傍観者にすることで 俺を保ってきた」
薄暗い部屋から自転車で帰る影山を見送っていた1話とは対照的に、35話ではひかりの中で影山に手を振る矢代。
これは矢代の立場が傍観者から当事者へ変化した描写であると考えられます。
影山久我ラインで残る伏線は3巻書き下ろしの久我のセリフ「やっぱ強敵だな」。
久我が矢代をけしかける展開を予測していますが、果たして。
百目鬼の諦めた理由
家族とはセックスをしない。
これは 百目鬼も同様で、あれほど「なんでもするから側において欲しい」と言っていた百目鬼が諦めた理由のひとつと推察しています。
「ヤクザってのは盃ひとつで家族んなって…守ってかなきゃなんねぇもんだって思ってたんす」
4巻で七原が語っていた通り、ヤクザの構成員は血は繋がってなくても”身内”になる。
「血は繋がらなくても 俺にとって妹は妹でしたから」
そう言って妹を恋愛の対象としなかった百目鬼が、組にいながら矢代を自分のものにしたいというのははっきり言って筋が通らない。
矢代に対しても。
家族以外の情愛を求めるのであれば組には留まれない。
矢代を自分のものにしたいなら、家族以外の立場にならなきゃいけない。
七原の兄貴
矢代を命がけで守った百目鬼に対し「本音としちゃなんとかしてやりてーって思うよ」と語る七原。
これで七原の兄貴が百目鬼と矢代をくっつけるために一肌脱いでくれる未来が確定しましたので、そんな展開早く来い。
羽ばたいた鳥たちは
七原、杉本、影山、久我と矢代と百目鬼の背中を押してくれる陣営は整いつつあるので、ネックはやはり三角さんとの関係になりそう。
羽ばたいた鳥たちは、今後さえずることではなく、相手に想いを伝える方法を模索していくことになるのかなと思います。
「囀る鳥は羽ばたかない」タイトルについて考察ー鳥が囀る理由と羽ばたく理由
「囀る鳥は羽ばたかない」、今回はその印象的なタイトルについて考察。
鳥が囀るわけ
なぜ鳥が囀るのか?については以前ヨネダ氏がnoteに紹介されていました。
【囀り】
「鳥の歌」ともいわれ、主に繁殖期に雄が出す美しい鳴き声のこと。
生まれながらに身につけている鳥もいるが、ほとんどが学習により身につける。・雄が自分の縄張りを他の雄に対して宣言したり、縄張りに入ってきた雄に「出て行け」と威嚇する場合
・雄の求愛の場合
つまり囀りはオスの鳥による
①他のオスへの威嚇
②求愛
ということになります。
”①他のオスへの威嚇”に関してはいかにもヤクザっぽい。
兄弟杯の平田や竜崎が三角さんを「親父」と呼び、親子の杯をもらってる矢代が「三角さん」と呼んでいるのは、「この人は俺のものだ」という他のオスへの威嚇と宣言。
”ほとんどが学習により身につける”の部分も深いなと思う。
鳥は愛を求めて囀る。
ついに鳥が羽ばたいた理由
34話、35話で矢代と百目鬼に関して「鳥が羽ばたく」描写がされました。
ついに鳥が羽ばたいた理由。
それは矢代と百目鬼が”さえずるのを止めたから”と推察されます。
「自分のものにしたい」「ずっと側において欲しい」「もう誰にも触らせたくない」そう願い続けた百目鬼。
これは求愛と威嚇の鳥の囀りそのものでした。
百目鬼が自分の願いを変えた理由は35話時点で描写がないため不明ですが、さえずることを止め、自分の望む形ではない矢代の愛を受け入れた百目鬼は、矢代の側を去った。
だから鳥は羽ばたいた。
羽ばたいたんだけど。
羽ばたいた鳥はどうなるのか?
囀ることしか知らなかった鳥は羽ばたいてどうなるのか。
その点に関しては作中で描写されてこなかったように思うので、今後の展開待ちになるかと思います。
羽ばたいた鳥はどこへ向かうのか。
羽ばたくことと愛、幸福とは結びついていくだろうか。