ゴールデンカムイ 網走潜入編後、面白さが減ったと感じる理由について考察「必要な成長痛」

今回はゴールデンカムイについて、物語前半のクライマックスだった網走潜入編以降「面白さが減った」と感じる理由を考察します。

樺太編から回想が多数挿入されテンポが落ちたことは理由の一つとしてあるでしょうが、樺太編以降アシリパの信じる人間の幅が広がらなかった(むしろ狭くなった)ことが一番の原因ではないかと考えています。

人を信じるということ

樺太編以降アシリパが信頼する人間といえば、杉元杉元アチャときどき白石、といった具合で新たな仲間や相棒には出会いませんでした。

網走潜入では色々な裏切りが渦巻きましたが、裏切り自体ははよくある話。
信じることを選んだのは自分である以上、裏切りにあった後、自分でどう始末をつけるのかが成長するうえで重要になります。

成長の描き方:ドラマ「武則天」の場合

中国ドラマ「武則天」では、一介の後宮の宮女がどのように中華史上唯一の女帝に成り上がっていったかが描かれます。

後宮で貴妃達の権謀術数に心優しい親友と立ち向かう
・度重なる謀殺の危機と、才覚あふれる臣下達との丁々発止
皇位を巡る親子、兄弟感での命のやり取りを止めようと試みる
・気弱な皇太子に帝王学を授ける
・皇帝の寵愛を受けるも皇帝は国が一番大事、宿した子は殺すように遺言を残される
・嫉妬した親友に裏切られ皇宮追放
・皇女に利用され、子二人を殺される
・義理の息子の謀反、実子達の殺し合い
・姪が夫を誘惑し、自分を毒殺しようとする

物語を通じ武則天は山のような困難と裏切りに直面し、多くの失敗をします。

武則天が凄かったのは、裏切り者に対する落し前のつけ方。
強大な敵と愛した者達の裏切りが武則天を強くしていったと言えます。
「私が憎いんでしょう!?殺せば!?」と叫ぶ皇女に笑いながら「では望みどおりに」と死を賜ったり、姪に飲ませる毒茶を優しく冷ましてあげる姿は皇帝の貫禄そのもの。

永きにわたり敵対関係にあった臣下(長孫無忌)と、お互いが国を支え続けて来たことに対する敬意を表しあったシーンは物語のハイライトでした(第76話「敵が知己に」)。

多くの人との関わり、理想に燃えたのちの幻滅、己の未熟さと失敗、愛すれども届かぬ想い、繰り返される惨劇…。
武則天の成長・変化が説得力を持つのは、経験から学び理不尽に屈さず裏切られるたびに己を強くしていったところ、そして敵の力量をも認める度量にあります。

希薄な人間関係

アシリパ樺太の旅をざっと振り返ると
・杉元死んだと聞かされる
樺太アイヌの村でスチェンカ&バーニャ
国境警備隊に狙撃され、キロランケ&アチャが皇帝殺しと知る
・ウイルタの家で尾形の手当てをするも、意味不明な逆恨みをされる
・白石を信じるようになる
・ニウブと漁をする
・亞港監獄爆破、ソフィアと会い少し話す
・尾形のアレ
・暗号を解く鍵を思い出し、キロランケに少数民族の未来を託される
・猟でクズリを捕り、シネマトグラフ撮影&上映

と色々あった一方、旅は他民族の文化を知ることが大半で、どちらかと言うと人として成長した感があるのは白石の方では…?と言える内容。

アシリパを庇護する人がアチャから杉元に変わっただけ…という感もあり、十代前半の子供が大人の庇護を受けるのは当然なんですが、ウイルタやニウブの人達、年の近い樺太アイヌのエノノカさえ「異なる文化」の一部としてとらえ、一人の人格として向き合う描写がなかった。

一緒に旅をした鯉登少尉や月島軍曹にもアシリパは興味がなさそうで、むしろインカラマッの方が少尉と軍曹を理解しているのでは?と思うほど、他者に対する洞察が薄い。
屈斜路湖でトニに「これではいつまでたってもお前の人生は 闇から抜け出せない」と語っていた頃は、もっと人を見ていたと思います。

網走潜入前それぞれ思惑があるのは分かりつつも、区別することなく皆に馳走を振る舞ったのはアシリパ特有のいい所だと思うんですよね。(アイヌの未来のため他民族との共生を目指すなら、ひとつの理想形。)
今は目的のため、関わる人と関わらない人を分けてしまっている。

裏切りに対応できる自分に成長するより、安易に人を信じない、より警戒するといった方向に進んだように見え「彼女はいろんなものをこの島で学んで成長したんだ」(第211話)、「ちょっと見ない間に少し変わったようだな 猛者ども相手に渡り合ってる」(第246話)と周囲に語らせても説得力に欠けてしまいます。

成長のプロセス

樺太での経験からアイヌの未来を守ること決意した、そこまではOKなのですが、決意する→行動が変わる→自分のしたことの結果を引き受ける、が成長の道筋であり、決意と成長は直結するものではありません

コミックス収録の際、鶴見中尉からの逃亡劇に大幅な加筆修正がされました(第211話)。
鶴見中尉の異常性を増しアシリパの選択に正当性を持たせようとしたように見えますが、あの逃亡劇が不評だったのは、アシリパが自分のしたことの責任を杉元に負わせているからだと思います。

鶴見中尉がどんな男か自分で見て確かめたい→会えば逃走時のリスクが高まる
分かりきった逃亡のリスクは杉元が重症を負うという結果で払った。
選択には責任があります。

逃亡後「私は杉元佐一と一緒に地獄に落ちる覚悟だ」とまたアシリパは決意をしてるんですが、一緒に地獄へ行くことが責任の取り方になるのでしょうか…?(必要なのはたぶん決意じゃない。)

必要な成長痛の不在。
網走後、大切な「裏切りに気づかなかった自分」への向き合い方が不十分だった(自分に対し落し前をつけずに来てしまった)のが響いてしまったなと思います。