<カタルシスは描かない>物語の二重の逆張り構造ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察⑤

「夢の雫、黄金の鳥籠」新刊12巻が発行されました。
レイマン一世とイブラヒムは欧州遠征に赴き、ヒュッレムは寄進財団の設立を目指す内容。
物語は淡々と進む。
夢の雫、黄金の鳥籠 (12) (フラワーコミックスアルファ)

物語が盛り上がりに欠ける理由

「夢の雫、黄金の鳥籠」は二重の逆張り構造で出来ています。

①従来のスレイマン一世関連創作に対する逆張り
レイマン一世はヒュッレムを愛しておらず、イブラヒムを友として大切にしているわけではない。

②「天は赤い河のほとり」に対する逆張り
主人公と皇帝はお互い愛し合っているわけではなく、民を思っているわけでもなく、善良でもなく、主人公は特別な活躍や成長を見せるわけでもない。

「夢の雫、黄金の鳥籠」の大きな特徴は従来的カタルシスの描写を回避しながら物語が進められているところにある。

ヒュッレム、平凡な女

よってヒュッレムは従来の創作で見られるような権力や富を求める野心的な女でもなければ、「天は赤い河のほとり」のユーリのように”愛に生きる、成長し活躍する、誰かの役に立つ、素直で率直、広く人々を思いやる、人気者”といった少女漫画のヒロイン像とは掛け離れた凡庸なひとりの女として描かれます。

12巻時点で唯一愛に生きている皇妹ハディージェとアルヴィーゼは今後思わしくない未来が待っており、欧州遠征が終わると物語の中で誰も愛に生きていない(イブラヒムがスレイマン一世への忠誠で生きていることくらい)世界が待っている。

この世界では、愛によるものだけが至高なのか?

自由と愛。それを求めることは当然であり、手にすることが幸福であるという一般的な概念がある。
(それを疑う機会はほとんどないと言っていいだろう。)

「夢の雫、黄金の鳥籠」は愛に生きる人々が思わしくない未来を賜る物語の世界となっており、それはなにを問いかけているのか。

愛を求め愛に生き、愛に殉ずればいいものではないー、どうすればよかったのか、何が正解だったのか。
愛を得るために「正解」を求めようとし、正解を得ようとする中で自分自身を失ってしまう。

例え何のためであっても、己自身を失えば生きてはいられない。
自分の存在より上に愛だとか自由とか敬愛する人とかを置くと、自分自身を失うことになる。

現時点ではそんなところだろうか。

(続く)