囀る鳥は羽ばたかない 7巻考察②「矢代の現在地ー白日、闇の別境」
続いて矢代の現在地について考察です。
親殺しの代価
平田に殴られ右目の視力を失った矢代。
親殺しの代価は体の一部を持って行かれることでした。
(三角さんの時を思うと今からキツい。。何を支払うことになるのだろう。)
「なんなら両方持ってたって良かった」
それが自分の人生から百目鬼を切って、元いた道に戻るってことなんでしょうけれど。
諦めたはずのものはまだ、矢代の中に残っている。
すでに変わっている矢代
7巻で印象的なのは矢代の見た夢です。
6巻までは雨の中取り残されるのが自分だと受け入れていた矢代。
今は追われたら逃げるくせに、百目鬼が追いかけてきてくれないと取り残された孤独を感じる。
頭打って百目鬼を覚えていないと下手な嘘をついたり、百目鬼の夢を見て海で黄昏たり、綱川組長に5割くらい本心を語ったり、「矢代らしくない」と言われる行動にはすべて百目鬼が関わっています。
「人は変わるのか」という問いには「すでに変わっている」という回答もできる。
矢代の肩の銃創と、百目鬼の頰の傷と左手小指。
再会後、お互いが出会って変わった証を確かめる描写はさすがヨネダ氏でした。
自分自身はだれのものなか
自己犠牲的な傾向というか、大切な人のため自分を省みない点はふたりとも似てるんですよね。
二人の違いは何かを考えてみると、「俺のモンだろ」と三角さんに言われて答えられない矢代と、「俺がどう生きようと何になろうと 俺のものです俺の時間もこの体も」と言ってはばからない百目鬼。
自分自身は誰のものなのか、というところですね。
自身の所有権が明確に自分にあるかどうかが二人の違い。
望みを決して諦めない百目鬼と、身を切ってでも諦めようとする矢代。
矢代の自分自身がどこか「自分ものではない」状態は過去の出来事が起因していることを考えると、百目鬼と本当の意味で共に歩いていくためにはあの過去と向き合うしかない。
しかしそれを矢代に求められるのか、と言うと「俺は俺という人間を手放さなきゃならない」の言葉の示す通り、それはこれまで作り上げてきた矢代の崩壊を意味します。
自分が自分のものじゃないと、人を愛することはできない。
分かってはいても。本当の望みがそこにあっても。
簡単ではないよなと思います。