囀る鳥は羽ばたかない 35話考察①「平田、すべての報い。矢代、半分の仮面」
33話で矢代と百目鬼は飛行場の近くに移動。
当初「なんで飛行場なんだろ?」と思っていたら、飛行機は分かりやすく鳥の比喩で、34話は”ついに鳥が羽ばたきますよ”というシーンで終了。
よって35話は矢代と百目鬼がスウィートな展開になるのかと期待していたのですが…全くそんなことはなかった。
というわけで35話考察です。
子への情
「平田にはそれなりに情もあった」
その平田の始末をつけることを三角さんは決意。
「身柄押さえろ」
天羽さんに指示した三角さんの背中からは平田を始末することへの寂寥と深い怒りが滲む。
証拠はないまでも、自分の半身である黒羽根をおそらく殺したであろう平田。
その平田に真誠会の跡目を譲って組長に据えたのは、三角さんの平田に対する大きな情であったと推察されます。
だが平田にとっては”一番に選ばれること”以外は親の愛ではなかった。
その親と子の誤謬が凄惨な子殺しを生みます。
平田、すべての報い
そしてこれまでのすべての報いを受けることになる平田。
矢代を陥れるために利用していた竜崎を、平田は刺し重傷を負わせた。
「ありがたく思え…この俺が手を汚してやるんだからよ…」
見下していた竜崎に行った仕打ちをはるかに超える屈辱を平田は三角さんから喰らう。
「お前ごときバラすのに俺が手ェ下すと思うのか?」
子として選ばれないのなら、裏切ってでも三角さんに自分の認めさせようと、三角さんの気を引くためには手段を選ばなかった平田。
「俺を見ろっ」
平田の必死の叫び虚しく、
「俺の知らねぇところで勝手に死ね」
三角さんに子としての存在を完全に否定され、平田は死を迎えます。
同時にこれは平田に殺された黒羽根の仇討ちでもありました。
証拠がないため留め置かれた平田を、今回処分する理由と証拠を用意できた。
矢代はどこまでも孝行息子であります。
黒羽根の墓前にあらわれたトモちゃんに向けた三角さんの笑顔は、理屈抜きでカッコ良かった。
未だ半分のひかり
怪我を負った矢代と百目鬼は入院。
「頭打って百目鬼のこと憶えてない」
七原と杉本にすら見抜かれるような下手な嘘をついて百目鬼を家族のもとに送り出す矢代。
家族のもとに帰る百目鬼の姿を、右手で顔を半分覆い、遠くから矢代は見つめる。
これはおそらく5巻で百目鬼を置いてアパートを出て行ったシーンとの対比になります。
あの時は動くようになった右手で顔全体を覆い、”これまで”の仮面を身につけ光と百目鬼に背を向け立ち去った矢代。
今回顔を半分隠して百目鬼を見送る姿から、ひかり半分、仮面半分な矢代の現在地が伺えます。
35話までが6巻収録分ということですが
35話に関してはここで終わるかー、というのが率直な感想。
ノーヒントだと私の読解力では読み解くのが難しい回でした。
次回は「囀る鳥は羽ばたかない」、タイトルについて考察予定。
(続く)
<カタルシスは描かない>物語の二重の逆張り構造ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察⑤
「夢の雫、黄金の鳥籠」新刊12巻が発行されました。
スレイマン一世とイブラヒムは欧州遠征に赴き、ヒュッレムは寄進財団の設立を目指す内容。
物語は淡々と進む。
物語が盛り上がりに欠ける理由
「夢の雫、黄金の鳥籠」は二重の逆張り構造で出来ています。
①従来のスレイマン一世関連創作に対する逆張り
スレイマン一世はヒュッレムを愛しておらず、イブラヒムを友として大切にしているわけではない。
②「天は赤い河のほとり」に対する逆張り
主人公と皇帝はお互い愛し合っているわけではなく、民を思っているわけでもなく、善良でもなく、主人公は特別な活躍や成長を見せるわけでもない。
「夢の雫、黄金の鳥籠」の大きな特徴は従来的カタルシスの描写を回避しながら物語が進められているところにある。
ヒュッレム、平凡な女
よってヒュッレムは従来の創作で見られるような権力や富を求める野心的な女でもなければ、「天は赤い河のほとり」のユーリのように”愛に生きる、成長し活躍する、誰かの役に立つ、素直で率直、広く人々を思いやる、人気者”といった少女漫画のヒロイン像とは掛け離れた凡庸なひとりの女として描かれます。
12巻時点で唯一愛に生きている皇妹ハディージェとアルヴィーゼは今後思わしくない未来が待っており、欧州遠征が終わると物語の中で誰も愛に生きていない(イブラヒムがスレイマン一世への忠誠で生きていることくらい)世界が待っている。
この世界では、愛によるものだけが至高なのか?
自由と愛。それを求めることは当然であり、手にすることが幸福であるという一般的な概念がある。
(それを疑う機会はほとんどないと言っていいだろう。)
「夢の雫、黄金の鳥籠」は愛に生きる人々が思わしくない未来を賜る物語の世界となっており、それはなにを問いかけているのか。
愛を求め愛に生き、愛に殉ずればいいものではないー、どうすればよかったのか、何が正解だったのか。
愛を得るために「正解」を求めようとし、正解を得ようとする中で自分自身を失ってしまう。
例え何のためであっても、己自身を失えば生きてはいられない。
自分の存在より上に愛だとか自由とか敬愛する人とかを置くと、自分自身を失うことになる。
現時点ではそんなところだろうか。
(続く)
それが愛によるものではないことだけは確か。寵姫ヒュッレム比類なき栄光の理由ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察④
「夢の雫、黄金の鳥籠」は現在12巻。
ハレムにおける第一夫人ギュルバハルとの争いを制し、物語の主軸は皇位継承争いに。
そのなかでヒュッレムは後見であり、愛したかつての主イブラヒムとの対立を深めていく。
スレイマン一世の求めたものはなんだったのか
これまでの創作においてスレイマン一世は
- ヒュッレムへの寵愛
- イブラヒムとの友愛
が描かれることが多かったのですが、「夢の雫、黄金の鳥籠」におけるスレイマン一世はヒュッレムにさしたる興味もなければイブラヒムに対するマイン・フロイント感は微塵もない。
12巻が経過してもなおスレイマン一世の行動原理が提示されていないのである。
これは作者の篠原氏かなり意図的というか、意地悪だなーと思って見ています。
”愛ではない”ものを描く
私がオスマン帝国、そしてスレイマン一世関連の創作に初めて触れたのは高校生の時に読んだ「緋色のヴェネツィア―聖マルコ殺人事件」(塩野七生作)。
「夢の雫、黄金の鳥籠」にも登場するヴェネチア出身のアルヴィーゼがメインキャラクターとして登場する話。
こちらの作品でヒュッレムは、スルタンの寵を背景に政治に口出しするロシア女として描かれる。
印象的なのは以下の描写。
「そう思うとマルコの頭の中に、そのとき突然、二人の女の姿が浮かんだ。リヴィアと、そしてスルタン・スレイマンが皇后にするほども愛した、ロッサーナの二人だった。
・・・・二人とも彼女たちの愛した相手の男たちは、まっすぐに進めたかもしれない道を、曲がってしまった。」
我々は「奴隷的」ではないだろうか?そこかしこにある黄金の鳥籠ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察③
印象的なのはタイトルにある「黄金の鳥籠」。
物語序盤ヒュッレムがスルタンのハレムに入る際、主イブラヒムから扉のついていない金の鳥籠が贈られる。
鳥のような自由を望むヒュッレムに対し、イブラヒムは「どこにいようと自由とは心のありようだ」と告げる。
ヒュッレムのような奴隷が自由を望むのは当たり前のように思うけど、現代の我々だって自由は至上のもので自由を夢見羨んで生きている。
どうして自由な立場にあるはずの我々は奴隷と同じ夢を見るのか?
我々は一体なにから自由になるのか
私たちが究極的に求めている変化、憧れている自由というのは、「私」や「私たち」といった認証の中に固定された、精神を解放すること。
自我を主張して、「私」がいかに善良で、魅力的な人物なのかを承認してもらうために生きる価値観から、自由になることです。自分に値札をつけて、高く買い取ってもらうことを競い合う、「奴隷思考」から解放されることです。
岡崎直子公式メルマガより
ハレムはスルタンに認めてもらえるかが全ての鳥籠。
今我々がやっているのも同じこと。
素晴らしい存在であると認められ、他の者より優れていると評価されることが価値。
誰かの作ったシステム(鳥籠)の中で承認されようともがいている。
囀る鳥は羽ばたかない 34話考察②「同じ雨に打たれることー雨と矢代、傘と百目鬼」
続いて「囀る鳥は羽ばたかない」で用いられる雨の描写について考察。
以下ネタバレを含んでいます。ご注意ください。
最初は作中の重要な場面で雨が降っているというぼんやりした印象でした。
これまでの雨が降っている主なシーンは
・影山の父親の通夜(高校時代)
・影山が彼女とデートしているところ(高校時代)
・事務所に葵ちゃんが訪ねて来たとき
・百目鬼のアパートに行った時
そして現在、倉庫に向かう途中から降り出した雨となります。
振り返ってみると、「囀る鳥は羽ばたかない」で描かれる雨は否応なくやってくる現実の暗喩のように見えます。
32話でかなり分かりやすく描写されていたのですが、車から百目鬼が降りた後、小さな子供とその子が濡れないように傘を差し出す母親の姿が描かれます。
その光景を見た矢代は暗く雨の中に取り残されているような表情。
この傘を差し出してくれる存在が矢代にはずっといなかった。
対する百目鬼は傘。
コミックス2巻の表紙は降ってきた雨に傘を買いにいく百目鬼とそれを待つ矢代の構図です。
矢代は自分の中に降り込んでくる雨をただ受け入れることしかできない。
百目鬼はその雨から矢代を守る存在として描かれます。
葵ちゃんが訪ねて来たとき例外的に立場が逆(矢代が葵ちゃんに傘を差し出したり、雨に濡れた百目鬼をタオルで拭いてあげたり)なのは、父親という雨に打たれた二人を矢代が救う場面だから。
百目鬼のアパートに行った時もスーツの上着をかけて、百目鬼は矢代を雨から守ります。
ただ百目鬼は自分が濡れるのはお構いなし。
矢代のことは当たり前みたいに雨から守るけど、自分は当たり前みたいに雨に打たれる。
これまではどちらかが守ったり守られたり…そんな関係でした。
同じ雨に打たれること
そして今回二人はどちらが傘を差し出すでもなく、初めて同じ雨に打たれます。
これは二人がようやく同じ場所に立ったという場面であり、これから同じ景色を見て歩いていける…そういった描写であると推察できます。
(倉庫に向かうまでの車で、矢代が後部座席ではなく助手席に並んで座ることになったのもその伏線)
囀る鳥は羽ばたかない 34話考察①「変わる過去、そして矢代が光の中に見たもの」
普段は電子版派なのですが今回は待ち切れず本屋さんでihr HertZを購入。
というのもこのtweetが気になりすぎたから。
今回はちょっと過去に関する仕掛け的なものを2箇所描きました。と言ってみたり。https://t.co/K6QYZmrt2L
— ヨネダコウ (@yoneco_info) 2018年11月30日
過去に関する仕掛けってなんだ。
今回はそちらを読み解いていこうと思います。
以下ネタバレが多数ございますのでコミックス派の方はここでブラウザを閉じてください。
では参ります。
あの時と同じシュチエーション
34話後半、矢代は平田に首を絞められ殺されかけます。
「もうとっくに壊れていた」
矢代のモノローグから、小学生のときの性的暴行ですでに自分は壊されていた、と矢代は感じているように思います。
「ああこれで ようやく俺は 俺を終わらせることができる」
平田が正面からではなく後ろから首を絞めているのも、初めて義理の父親に強姦された時の再現と見ていいでしょう。
精神的に殺されるか肉体的に殺されるかの違い。
あの時と同じシュチエーションで、矢代は親の立場にある存在に殺されそうになる。
”ほんとうは助けてほしかった”
「…妹は よかったな お前がいて」
目を覚ました矢代は、光の中に平田を殴りつけている百目鬼の姿を見つけます。
ただ羨むだけだった百目鬼の妹のように。
あの時は得られなかった助けを。
矢代は本当は欲しかった助けを、ついに得た。
救いだけではなく
目を覚ました矢代に駆け寄ろうとした百目鬼は、隙をついた平田に撃たれます。
それを目の当たりにした矢代は一心不乱に平田を打ち付ける。
これは百目鬼が妹を助けたときの再現ですね。
妹を救うため父親を半殺しにした百目鬼と同様、百目鬼を守るため矢代は親である平田を後先考えず殴りつける。
これはつまり矢代が百目鬼と同じ立場に立ったことになります。
と同時にこれは矢代にとっての初めての親殺し(平田は死んでないけど)。
親に逆らわないために、受け入れるために、子供の頃から自分をグシャグシャに壊して生きてきた矢代。
親に殺されることを受け入れてきた矢代が、ついに親に刃向かった。
”親殺し”の先輩
この34話を読むまであまり意識してなかったんですが、矢代にとって百目鬼は”親殺し”の先輩なんですね。
未熟な部分は多々あれど、”親殺し”に関しては百目鬼はすでに経験済み。
これから矢代が生きていくには救いがもたらされるだけでは不十分で、親との決別の意思を持てるかどうかが重要だったので、今回で矢代の生存確率上がったんじゃないかと個人的な見解(状況的には大変だけど)。
親殺しのイニシエーション
ただそれに伴い平田の言ってた「お前はいつか三角を裏切る」が現実化する可能性が浮上してきました。
親、といっても平田は形式上もいいとこ、つまり矢代にとっては前座も前座で、矢代にとっての親殺しのイニシエーションを三角さんでやる可能性が出てきた。
矢代は三角さんを殺したりはしないでしょうが、三角さんの意思に沿わない、三角さんにとって望ましい矢代とは違う道を選んでいくことになるかと。
そうすると今度は三角さんが大変になる。
なので今後三角さんが親としてどうするか、も問われていくと思います。
次は雨の中倒れた二人について考察。
(続く)
世間において言われる「よきもの」とは?ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察②
現代はもとより、寵姫ヒュッレムは生きていた当時から評判がよくなかったらしい。
主な理由はハレムの住人が政治に口を出すきっかけを作ったから。
ロシアの魔女の言葉を耳に入れ
企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり
生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした
ああ、無慈悲なる世界の王よ
かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに
その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに
年老いた今、悪しき不正義を行うとは16世紀の女流詩人 ニサーイー
栄光のスルタン、スレイマン一世をたぶらかした(と言われる)ヒュッレムは一般的に「悪しきもの」とされている。
一方で歴史上、ヒュッレムの被害者とされている第一夫人マヒデヴラン。
(マヒデヴランは第一皇子を生むも後に後宮を追放される。)
「夢の雫、黄金の鳥籠」ではスルタンの子を懐妊した妾たちをことごとく海に沈め、ヒュッレムが現れるまでハレムで圧倒的な権力を持っていた人物として描かれている。
そのマヒデヴランは自分自身に対してこう思う。
外の政治には口をはさまず
妾たちとは適当につきあうわたしって結構賢夫人だと思うのよね
「ギュルバハルさまの一日」より
「よきもの」とは?
「邪魔なものは殺す その力があるなら時と場所など選ばない
わたしは今までそうやって生きてきた」(本人談)なマヒデヴランが自称賢夫人とか冗談言うなよ、って話ですが、これが案外核心をついている。
「邪魔なものは殺す その力があるなら時と場所など選ばない」
それをハレムの中だけにとどめておいたマヒデヴランと、外の世界で行ったヒュッレム。
妾も宦官も誰も不審な死を迎えることのない後宮を目指したヒュッレムは、外の世界に権力を求めていくことになる。
世間(外の世界)にとってはいくらハレムで妾や宦官が不審死しようが、政治に口出ししないマヒデヴランが「よきもの」になる。
「よきもの」とは善良なものなのか?
それとも”都合の”よいものなのか?
(続く)
罪悪感の時代の終焉:キリストから2000年の時を経て、人は原罪の世界に飽きる
西暦とはキリスト教でイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を紀元とした紀年法であり、現世はキリスト生誕から2000年以上経過した世界である。
近代以降におけるキリスト教の失墜は明らかであり、今後もその流れは止まらない…と予測しますが、そもそもなんで「原罪」みたいな(つまんない)世界観が2000年もの間世界を覆ったのか、そっちの方が不思議である。
人類の約2000年単位での価値観の変遷については「宝瓶宮占星学」に詳しい。
www.aqast.net
簡単にまとめると地球の自転によって「春分点」が約72年に1度動く
→約72年×30度=約2160年ごとに春分点のサイン(宮)が移動する
それにより人類のムードは約2000年ごとに変化する。
http://www.aqast.net/613platonic-year.htmlwww.aqast.net
キリスト以降2000年の期間は
◆双魚宮時代 西暦0年~西暦2000年
うお座っぽい時代。宗教や思想が人類のメインテーマになる。
善と悪、神と悪魔、加害者と被害者、富める者と貧しい者、聖と邪、資本主義と共産主義、といった対立する二元論の世界。
そしてこれから西暦2000年以降の現在は
◆宝瓶宮時代 西暦2000年~西暦4000年
みずがめ座っぽい時代。自由や平等の精神。
対立から共鳴、境界のないユニバーサルな価値観への移行。
ちなみに紀元前の世界は
◆白羊宮時代 紀元前2000年~紀元0年
おひつじ座っぽい時代。本能的で純粋無垢な時代。
己の正義を求めるために、他者との戦いや、生存のための争いが生じる。
”被害者”が力を持つ時代の終焉
現代における二元論的有効性の消失の例として顕著なのはいわゆる従軍慰安婦問題。
自らを被害者の立場に置くこと、相手に罪悪感を持たせることが力になる時代があった。それが双魚宮時代。
今後双魚宮時代の二元論に基づいた成功体験は再現性がなくなる。
つまり「おまえが悪いんだ」と他者を既定することはもはや力を持たなくなる。
特定の他者との関係性にではなく、世界における己そのものを既定しなくてはならない時代。
今後の時代の流れとして、キリスト教や仏教、イスラム教に覆い隠されていたもの…つまり紀元前の文化の復刻すると予測しています。
日本における近年の占星術の復権はそのひとつでしょう。
キリスト生誕以降、双魚宮時代の2000年で人類は原罪の世界を学んだ。
西暦2000年以降を生きる我々にとって、原罪は過去の概念となった。
学び終えた、ということであり、罪悪感はもはやout of date、”今”のエネルギーではなくなったということ。
罪悪感、は今もなお人を苦しめる概念である。
ただそれはもう人類の歴史において過去のこと。
終わったことは終わらせて、今を生きること。
それが力と世界では呼ばれる。
海王星逆行終了ー「家族幻想」の崩壊
11月25日に海王星の逆行が終了。
天体が順行のときはそのエネルギーを外に放つ期間、逆行のときは内側に貯めていく時間。
海王星は”幻想”をつかさどる星。
逆行の終了は今まで育ててきた幻想を自らの内側と照らし合わせ、その夢(幻想)が自分にもはや不要なら、飽きたのなら、終わらせる時。
今回の海王星逆行終了は個人的には「家族幻想」の最後の崩壊として現れた。
コラムニストのアルテイシアさんが書いている。
でも本当はショックを受けてるフリをして、面倒なことから逃げたかっただけなんだろう。
(中略)
私たちは仲のいい双子だった。
と、思いたかったのだ。
そうであってほしいという思い。それは自分自身の育てた幻想。
「家族の絆」という幻想の終わり。
長い長い幻想だった。
他者に対する期待(幻想)ではなくただ自分自身を見ることを決めた。
次はどんな幻想が終わるのだろう。
「天は赤い河のほとり」の作者が今オスマン帝国のハレムを描く理由ー「夢の雫、黄金の鳥籠」考察①
少女漫画には金字塔と言われるいくつかの作品がある。
1995年から2002年まで連載された篠原千絵の「天は赤い河のほとり」はそのひとつに数えられと思う。
日本の中学生ユーリが紀元前14世紀のヒッタイト帝国にタイムスリップし、軍神イシュタルとして皇子カイルと共に帝国の人々を守り導いていく物語。
あの有名な「BASARA」(田村由美作)と同様、少女漫画で15歳くらいの女の子が民衆に認められ人気を博し国を動かしていくには男性と同じように軍事・政治的に活躍する必要があった時代の作品と言える。
「天は赤い河のほとり」の物語の基調は、帝国の民を思いそしてお互いを思い合う二人の愛。
自分の息子と帝位につけようと目論むナキア皇后の権謀術数をユーリとカイル皇子二人の愛で退けていく。
対して現在連載中の「夢の雫、黄金の鳥籠」はオスマン帝国最盛期に舞台を移し、ハレムの奴隷ヒュッレムが第一皇子を差し置き自分の息子を帝位につけようとする物語である。
主人公が皇帝の寵愛を受けることになる少女、という設定は「天は赤い河のほとり」と同じだが、行動の動機は全く異なる。
つまり主人公がナキア皇后の立場にあるのだ。
自ら打ち立てた金字塔作品の設定をあえて覆した物語を今紡ぐ理由はなんだろうか?
そこには「よきもの」とは?についての問題提起、そしてイスラムの世界で女性として比類ない地位を築いた寵姫ヒュッレムに対する世界の考察の浅さがあるように思う。
壮麗王スレイマン一世はなぜそれほどまでに寵姫ヒュッレムを重んじたか?
「夢の雫、黄金の鳥籠」の主人公ヒュッレムは歴史上に存在する人物で、ハレムの奴隷から壮麗王スレイマン一世の皇后に、しかもイスラムの世界において一夫一妻の関係を築くまでに至った人物である。
ロクセラーナ - Wikipedia
ヒュッレムは特筆するような美人ではなかったとの史実があり、彼女の地位は美貌で得たものではないことが分かる。
オスマン帝国最盛期の皇帝であり、世界の半分を手にしていたとも言えるスレイマン一世。
そのスレイマン一世がなぜハレムの一人の奴隷にこれほどまでの地位と待遇を与えたのだろうか?
前例のないことであり、与えない理由はいくらでもあったのだ。
ヒュッレムについては美しい声を持っている、陽気なおしゃべりなどが伝わっているが、それだけで皇后の地位を得たとは到底考えられない。
「夢の雫、黄金の鳥籠」はなぜ寵姫ヒュッレムが比類なき栄光を得たのか、”今”の視点においてもう一度、歴史をそして一人の女を読み解いていく作品である。
(続く)